「昭和32年。私は30歳だった。
そのころ私は、むやみと小説を読みふけっていた。そして、毎日のように有楽町の碁会所に出かけていた。調子がよければ閉店まで打ちつづけたし、負けがこむと切り上げ、どこかの映画館に入った。『縮みゆく人間』など、SF映画の多い時期であった。映画を見おわると、銀座のあるバーに寄る。小さく安い店で、気軽に飲むことができた。
というと、なんと優雅な日々と思われるだろうが、現実はそうではなかった。その前々年あたりから、暗く重苦しい日の連続であった。思い出すのさえつらい。
父の死後、会社を引きついだはいいが、巨額の負債と営業不振でどうしようもなく、整理を他人に委託した。雑事から解放されたというものの、精神的な空虚さは一段と増した。前途になんの希望もない。なにをしたものか、まるで見当がつかなかった。つぶれた会社の2代目、30歳の男をやとってくれるところなどない。友人に泣きごとを並べるには、私は意地が強すぎた。自暴自棄になるには、私は理性が強すぎた。だから、読書、碁、映画、バーということで、一日一日をつぶしていたわけである。いったい、これからどうなるのだろう。将来を考えるのがこわかった。
そのころの日記が保存してある。当分は読みかえすまいときめていたのだが、この月報を書く参考にと、取り出して開いてしまった。やはりよくない。かなり昔のことなのに、昨日のことのように、いや、現在のことのように、思い出がよみがえってしまった。まだ、なまなましいのである。」
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